江戸川区新田町会
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我が町 新田の沿革

昭和7年、町村合併により江戸川区が誕生する頃に、これまで親睦団体的な町内会組織が、市区の自治行政の補助機関として着目されてきて、新田町会は昭和8年、初代会長に故佐久間安太郎氏が就任し、約130世帯を持って発足しました。

昭和12年、日中戦争が勃発すると、戦時体制の強化策として町会は国家総動員組織の一環と位置づけられ、機能していくようになり、翌13年、東京市は東京市町会基準等を示し、町会の強化整備、再編成を行い、数戸を単位とする町会を細分化した隣組組織が誕生しました。昭和15年、町内会整備に関する内務省訓令が定められ、町会は市町村の補助的部下組織として位置づけられ、区域内の全戸を持って組織されることとなり、国策の徹底を期することを目的とし、隣組防空群、物資の配給、資源の回収、労務供出等に隣組が活用されました。終戦により町会を縛っていた戦時体制は解かれましたが、制度そのものは存続し、食糧危機の中での配給制度やその他住民生活を支える大きな役割を果たしました。

しかし、昭和22年、ポツダム政令第15号によって町会は解散させられましたが、本来の目的である相互扶助的な組織が必要であったため、新田睦会として防火防犯などの自衛手段として、名称を変えて存続しました。昭和27年サンフランシスコ講和条約発効に伴い、政令15号は失効し、潜在化していた町内会は、本来の目的である会員の親睦と相互扶助の組織として、次々と復活しました。

新田地区はまさに文字が表すように、新田開発の地であり、葛西海岸地帯の開拓は江戸時代慶長(1596~1615)以降、明治初期までに及び、長島、桑川、二之江、下今井等の村々の人々が海岸地域や海面であった新田地域を開拓して、入会新田として明治中期まで保有していました。その為、各村の人々が開拓した地域を長島耕地、二之江耕地、下今井耕地や桑川新田、長島新田などと呼んで、今でも旧字名である十五面、下府、乗掛、給分、海端や名称である桑川新田、長島新田、玄海などと口にする古老もいます。

明治22年、(1889)東宇喜田、西宇喜田、長島、桑川の4ヶ村が合併して葛西村が誕生します。

明治初期の古地図を観ると新田地区には約62戸の住居が数えられ、西葛西地区にはまだ人が住んでおりませんでした。昭和8年新田町会発足当時は130世帯、その内西葛西はわずか4世帯でした。葛西地区の家々は半農半漁で、冬は浅草海苔の養殖製造、夏期は農業・蛤、アサリの採取・野菜魚介類の行商等を営んで生計を立てて来ました。

海抜0mの海辺の町葛西は古くから、風水害に悩まされ、カスリーン(1947)、キテイ(1949)等の台風には大きな被害を受けたが、特に大正6年の大津波は葛西村で壊れた家1355軒、死者248名の犠牲者を出しました。

陸の孤島といわれた葛西、大正時代は高橋(江東区)から浦安までに新川に定期船が運航されていたのが唯一の交通手段で、バスは旧葛西橋が開通(1928)した後、城東乗合が境川(江東区)から新田、その後日本ロールまで運行されました。

以前は水汲み場があり(葛西駅東京電力前と馬頭橋の二ヶ所)そこで水を汲んだり江戸川まで船で水を汲みに行ったり、水の行商も来ていたそうです。今では考えられなかった葛西も、昭和37年の漁業権放棄に始まり、昭和42年から始まった土地区画し整理事業及び葛西沖埋立事業、昭和44年に開業した東西線のおかげで、それまで陸の孤島であった葛西地区は首都東京の中心オフィス街に最も隣接した優良住宅地として脚光を浴びるようになり、昭和54年には西葛西駅も開業し、ますます発展しました。中でも町内の東・西端に葛西・西葛西の2駅のある新田地区の発展は目を見張る限りです。この発展のかげには、先祖代々守り続けてきた自分たちの生活の糧である納地や宅地の一部を無償で提供し、土地区画整理事業に協力し、町の発展を願い、先頭になって旗振りを行った先人達の努力と勇断の賜物であります。

この街の開発・発展と共に、人口も急激に増加し、古い住民と新しい住民とのコミュニケーションづくりの場として、町会の果たすべき役割はますます重要となっており、「安心・安全な町づくり」に邁進してまいります。


新田町会 80年の歩み(年表)
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